以前、辻仁成さんのエッセイを読んでいるときに

とても印象的だったお話があります。

辻さんは、結婚をして以来、日本を離れ、フランスに住んでおいでなんですが

今は、離婚をされて息子さんとの男2人暮らしをされています。

離婚をされたのは、まだ息子さんが小学生くらいだったので、

辻さんは、異国のフランスの地で、本職の著者の仕事もこなしながら、ミュージシャン活動もし、

それに加え一家の主婦も見事こなし、育児も全て自分でやるといった、超ハイパーパパさんだったりします。

そんな、辻さんのエッセイには、愛息子じゅうくんとの、毎日がさまざまな言葉で描かれています。

それは、

ときには、おかしくもあり、

ときには、せつなくもあり、

ときには、真剣でもあり、

そして、いつも、あたたかいものです。

そんな、ある日、じゅうくんが、クラスのお友達を招いてお誕生日会をすることになりました。

このお誕生日会なんですが、まあ、パーティーの主役であるじゅうくんが、招待したいお友達

を選ぶわけですね。

つまり、パティ―の主催者が、招待客を選ぶということです。

じゅうくんのお誕生日会に限らず、私たちもこういった場面に遭遇することってたくさんあると思います。

例えば、結婚式の披露宴に呼ぶのは誰にするのか、この飲み会に呼ぶのは誰にするのかといった

具合に、主催者側が、招待客を選ぶんですが、

まあ、こういうとき、なんというかいろいろあるわけですね。

はっきりいうと、

この人を招待したら、この人も招待しておかないと角が立つんじゃないのかとか

あの人を呼んどかないと、後で何か言われるんじゃないかだとか

そういうめんどくさいやつですね。

ようは、いくら個人のパーティーであっても主催者側が招待したい人間だけを招待する

といったことが、なかなかできないというのが、現実にはあったりするもんなんですよね。

それは、大人の世界もそうですし、子供の世界もそうだと思います。

こういうことで、いろいろとトラブルが起きることもあります。

例えば、あの子は、呼ばれたのに私は呼ばれていない~(泣)

といったものだけではなく、

実際に、いじめのために、わざとこういったことを悪用する人たちもいると思います。

人間関係というものは、大人だけでなく、子供だって大変なものです。

辻さんも、じゅうくんの、招待客についてある種の心配をしていました。

ですが、じゅうくんのお誕生日会は違ったんですね。

なんと、じゅうくんは、徹底して自分の招待したいお友達だけを選び、

徹底して招待したくないお友達は呼ばない

といったことをしていくんですね。

父親である辻さんは、最初にじゅうくんのこの態度を見たとき、やはり心配をしたそうです。

まあ、その心配というのは、きっと

”あとで、いろいろもめるんじゃないの?”

”なんか、めんどくさいことにならないか?”

といったものだと思うのですが、

そんな辻さんの心配はよそに

人間関係のトラブルなんてものは一切起きなかったそうです。

それは、

パーティーの主役であり主催者のじゅうくんも、そうですが

パーティーに呼ばれた方も呼ばれない方も全くそのことについて何も思っていないそうなんですね。

ようは、

”パーティーの主役が誰を招待しようとそもそも関係ないよね~”

と、いう感覚を

パティ―に呼ぶ側も、呼ばれた側も、呼ばれていない側も、ごくごく自然に当たり前のように

受け止められているんですね。

パーティーに呼んだ側も、呼ばれた側も、へんな優越感もなければ

呼ばれない側も、へんな劣等感も持っていないし、無理やりパーティー会場へ行こう

とも思っていない。

全員が、そのことについて、不自然に、ギャーギャー騒ぎ立てるようなことは一切しない。

ただ、起こっていることいることと、同じくらいの大きさの反応しかしない。

それは、小さな風が吹いたら、樹木の葉が小さく揺れるのと同じくらいの自然さです。

こういう感覚を、大人ではなく、小さな子供たちが、すでに身につけているというのが

驚くべきところだと思います。

つまり、ある種の洗練が当たり前のように小さな子供の頃から備わっているということです。

この様子を見て、辻さんは、フランス人の持つ徹底した個人主義の文化がこういう感覚を

育てているんじゃないかと思ったそうです。

それと同時に、まあ、日本じゃなかなかこうはいかないんじゃないのかなとも思ったそうです。

私もそう思います。

これが日本なら、小学生くらいの子供さんなら、ギャーギャーいう子もいるでしょうし

それどころか、一緒になって、ギャーギャーいう親もいるんじゃないかと思ってしまいます。

以前、私は洗練について当ブログで書いたことがありましたが

洗練というのは、

いらないものを捨てていくということでもあり

関係のないものは関係のないものとして自然に静かに受け止めて生きていくことだと思っています。

つまり、

洗練とは、徹底した個人主義のことをいうのではないのかと思っています。

そうして、この徹底した個人主義がない限り、多様性なんてものは持ち得ないとも思っています。

私は、わりと平和が好きなタイプです。

できるだけ、平和な世界に身を置きたいと思っています。

そのためには、まずは平和な世界がなんなのかを、見えるようにならないといけないと思っています。

私が見たい、平和の世界

それはきっと、静かで平和な多様性の世界です。

だって、この世に、絶対というものがそもそも無いのだから。

そのためには、全ての絶対を排除していき、いらないものを捨てていき、関係の無いものは関係ないものとしていく。

なぜなら、その先にしか、個人も自由も平和も存在しないような気がしているからです。