あれはいつの記憶なんだろう?

小さな私。

たぶん、小学校の低学年くらいかな?

”大丈夫、ちゃんと人の身体は浮くことが出来るんだから”

”特に、海はプールよりも良く体が浮くから大丈夫”

そう、励まされる。

でも…

そんなこといわれても…

カナヅチの私にはわからない…

それが、わからないから、カナヅチなのに…

”大丈夫だから”

そんなこといわれても

怖いものは怖い…

もしも、このカラフルな浮き輪から、自分の身体を放したら、どうなるんだろう?

怖い…

やっぱり、どうしても恐怖心の方が勝ってしまう

 

 

以前、当ブログにも書いたと思うんですが、

私は、人間の存在価値というのは2種類のものから成り立っているんじゃないのかな

と思っています。

⇒人間の価値は2種類ある

1つは関係性によって生まれる価値

1つは尊厳による価値

もちろん、今もこの思いは変わってません。

で、今回は、”尊厳による価値”ついてお話ししたいと思います。

実は、今現在、ものすごく自分自身を尊い生き物だと感じているかといえば

あんまり、感じていないような気がしています。

それどころか、普段は自己愛も、自分リスペクトも全部忘れてしまっている気がしています。

なんだか、ぼーっとしている気がします。

なぜなら、たぶん、それらが普通のことだと思えるようになったからだと思います。

そう、”自尊心”も”自己愛”も”自分リスペクト”も

私の身体の中に心臓があり、あたたかい血が流れているのと同じくらい自然な事だと思えるからです。

心臓の音をわざわざ確認しなくても、生きているのが当たり前のことだとわかるように、

それらのことが普通に思えてるんだと思うのです。

だから、今現時点では、毎日一生懸命、”自尊心””自己愛””自分リスペクト”とは思っていません。

本当は、もっと、頑張って、さらなる開花を目指した方がいいのかもしれませんが、

なんか、今のところは特に困ってもないし、まあ、いっかくらいに思ってます。

では、以前の私は、なぜ、そんなにも、”自尊心””自己愛””自分リスペクト”といったものを心の

よりどころにしたのでしょうか?

いわゆる、自分で自分を大切にし、守り抜くといったことに何故必死になったのでしょうか?

それは、私自身が、絶対的な価値というものに囚われていたからだと思います。

そうして、その囚われているものこそが、間違えているということにも気が付き始めたからです。

そのことがわかったときも、かなりショックでした。

でも、さらにショックだったのが、

間違えているとわかっていても、まだその間違えているものにずっと囚われるといった感覚です。

この感覚は、ものすごく苦しいものがありました。

本当に、長い間ものすごく苦しめられました。

何度も、何度も自分のことを嫌いになりました。

では、なぜそのような事がおこるのでしょうか?

それは、人間というものは、自分が見てきた世界を信じるという習性があるからなのではないでしょうか?

例えるのなら、遠い外国で起きている話よりも、毎日の日常のほうがリアリティに感じるように。

きっと、私は、長い間、絶対的な価値や、正解を求めていた分、見えている世界がそのものが

そういうものになってしまったところというのがあるんだと思います。

う~ん、少し違うな。

長い間、絶対的な価値や、正解を求めていた分、見えている世界が歪んでしまったの方が

正しいのかもしれません。

そうして、

もしも、私の見えている世界が、歪んだものではなかったら…

すぐに、本来の私自身の心の目で見つめる世界を見ることができたなら…

きっと、間違えているとわかっているはずのものに、長々と囚われるようなこともなかったように思います。

それは、身体が浮くことを知ったなら、浮き輪を手放せるのにということにすごく似ているように思います。

もしも、この、広く深い海の世界を泳ぐ力が、私の身体の中にきちんとあると信じることができたなら

私は、必死にしがみついているこの浮き輪を手放すことができるのに…

それが、できないから

しがみついてしまう。

間違えているとわかっているものに囚われてしまう。